体験談


ありのままの自分 「神経たかり」のやす

2003年7月「サマリヤ会だより」より

 僕は埼玉の神経内科2回と東京の精神病院に計5回もの入院生活を続けてきました。病院の中では、酒はゼッタイ止めると心の中で思っていても、退院して家に戻ると気持ちがすぐ変わり、酒の事だけが頭に浮かんでしまいます。心の中では、止めると思っていても無理でした。最後、5回目の入院はわけがわからなく、入院させられていました。その入院生活が1年2ヵ月、この1年2ヵ月の入院生活の中で、僕はもうこれ以上親、兄弟、世間に迷惑はかけられないと思ったのです。なぜ思ったかは、母の一言です。「こんな息子は死んでもらったほうが母さんはよっぽど楽になる」看護婦さんとの話で僕の心に針、千本が刺さった気がしました。平成13年5月、僕がいた病院に新しい夜勤の看護婦さんが入ってきたのです。僕はお酒のせいか分かりませんが、血圧が高く、朝晩と、血圧測定をしていたのです。するとその看護婦さんは僕に、「あなたならやり直しがきくよ」って言ってきてくれたのです。その看護婦さんが言った言葉は「AAっていうところがあるんだョ、お酒を止めていく会、仲間がいっぱいいるところです。そこに行ってみれば」って僕に話してくれたのです。僕はAAのことは何も知りませんでした。その看護婦さんは夜、僕の所に来てひそかに教えてくれました。東京の池袋にあるAAセントラルオフィスの電話番号を紙に書いて僕によこしてくれたのです。僕は今度こそ酒を止めると思い、7年前に亡くなった父、10年前に亡くなった姉さんにも、母兄弟にも誓ったのです。その話を母に手紙で家に出しました。すると3日後、病院に1通の手紙が届きました。封を開け読んでみると、「そういうところがあるんであれば行ってみなさい」と書いてあったのです。3つ上の姉さんと母が色々な所に電話で問い合わせたらしく、北海道の札幌にある青十字サマリヤ館を探してくれたのでした。僕は札幌っていう所は恥ずかしながら知りませんでした。病院の看護婦さんに、「札幌って北海道だよ」って聞いたときには心臓が爆発寸前になりました。でも酒を止めていくには親兄弟がそばにいればかならず甘えが出てしまいます。この札幌に来る決心がつくまでには本当に時間がかかりました。僕はもう44才、人生の半分は来ています。残りの半分は酒なしの人生を送りたいのです。しかし、僕は気持ちの整理が出来ず、母、姉にサマリヤ館に行くという言葉がなかなか出ませんでした。病院の中で眠ることも出来ず、いく日かして、やっと心の整理がつきました。その日僕は家に電話をしてやっと決心がついたと伝えたのです…。家のものがサマリヤ館に電話をしたのですが、ほんの少しの差で2人ほどの入館者が決まってしまい、僕は3ヶ月延ばされてしまいました。僕の返事がもう少し早くできれば平成13年の5月頃にはサマリヤ館に入館出来たのです。サマリヤ館への入館が決まったてからの3ヵ月間といったら本当に不安の毎日でした。時が過ぎ3ヵ月経ち平成13年8月31日西東京病院を退院です。僕は家に戻ってからと思っていたのですが、自分自身、里心が出ると思い病院から羽田空港まで母と姉、姉の子供3人が見送りに来てくれたのです。別れ際、母が僕に言ったのは「北海道に行ったら人の役に立つ人間になるんだよ」という言葉でした。姉さんも「がんばれよ!」って、僕の口から出た言葉といったら「どうも」その一言だけでした。一人で飛行機に乗るのは生まれて初めてです。飛行機が飛び立ち僕は不安で不安でこの先どうしていいか考えることは出来ませんでした。僕はこのまま飛行機が落ち てしまわないかなと考えていたのです。そんなことを考えている内、1時間30分ほどで千歳空港に着いてしまいました。サマリヤ館のスタッフとの待ち合わせが川沿にあるグリーンホテルでした。6時という約束で僕は6時丁度に着いたのです。2〜3分して僕の前に1台の車が止まったのです。車から出てきた人が僕の前に来て「加藤さんかね」と尋ね、僕はすぐにサマリヤ館のスタッフだと思いました。それからスタッフと2人で20分ほどで青十字サマリヤ館に着いたのです。少し経ちスタッフ、ケースワーカー3人で色々と話をしたのです。まず、最初に「今お金はいくら持っていますか」と聞かれました。僕がもっていたのは、母から持たされた3000円で、その3000円は千歳からのバス代、1000円と後の残りはタバコ、ジュース代で、残っていたのは1500円くらいしかなかったのです。1000円はサマリヤ館に預け、残りの500円は持っていてもよいと言われたのでした。平成13年8月31日、その日からサマリヤ館での生活、夜はAAミーティング、何を話してよいか、過去の事を考え考え、毎日同じような事を話している自分がありました。僕は1ヵ月ほどでもう「やだ」…逃げ出してしまおうかとも考えていました。でも1度決めた事、毎日毎日メモを取って話をしたのです。そんな苦しみを乗り越え3ヵ月、6ヵ月、9ヵ月、1年のバースデイを仲間に祝っていただいたのです。2ヵ月後にはサマリヤ館を退館する事が出来たのです。今思えば青十字サマリヤ館に入館して本当に良かったと思う気持ちでいっぱいです。お酒を飲まなくても生きる喜びを感じました。平成15年、今はふじの共同作業所に通い、毎日を楽しく仲間と仲良く作業をしています。僕はこの青十字サマリヤ館に来て本当に良かったと心の底から思う気持ちで感謝しています。第2の人生、しらふの人生、社会復帰もしたい今日この頃です。


まだ、正直になれない自分 S.I

2006年10月「サマリヤ会だより」より

自分は24歳頃から、アルコールを本格的に飲み始め、30歳の時に長男と一緒に、岩見沢市立総合病院の精神科に入院。その時自分がアル中だと思い、認めていた。 手のふるえや幻覚幻聴が始まっていた。朝から酒を飲み、親に注意され、かくれ酒を覚え、言いわけを見つけてはうそを付いて飲んでいた。中学3年の時、万引きをして警察につかまり、 裁判所に親父をつれて行った事。それ以来ぬすみはやめた。中学卒業後親父の店、魚菜店仕出屋の手伝いして、18歳で車の免許を取り、20歳で札幌に来て、先輩の紹介で運送会社の寮生活。給料が安く、夜走る残業仕事をして働き、居眠り運転で事故。2t車一台をパーにし、免許取消しで実家三笠に帰り、手伝い又免許を取り酒に走った。 ギャンブルは主にマージャン。酒を飲みながら覚え、初めて一晩で二十万位負けていた。それからは酒と女に狂い、フィリピンまで行き多額の借金をして親に全部任せた。 親父が店をやめてからよその仕事を飲みながらやり、37歳の時、札幌西区勤医協に入院。胃がんで胃を取り何とか生きて来た。 その間月2回の通院。自分の車で通い、札幌について焼酎20度を1本、そして病院帰りは車の中で一、二本飲みながら帰宅。親父にばれて、車を取り上げられそこから1人酒をしてブラックアウトの状態で三笠精神科に入退院の繰り返し。平成13年と15年に親が死に全部精神病院の中。その時俺は50歳で死ねれば充分だと思い始めた。姉兄弟に見放されていた時、施設の話があり、その前には自覚もしていた。自分の入る所ではないと思っていた。ミーティングが大キライだった。そんな自分が何でサマリヤ館に入る事になったのか。死をのがれたかったのか。サマリヤ館に入ってようやくわかったのかはよくわからない。 平成18年8月7日入館。病院から直行。次の日からミーティング、回復のプログラム1,2,3と同じ内容にあき、付いた仲間も変わった人だなアと思い一ヶ月でイヤになり、三ヶ月目に五輪橋内科病院に入院。なぜかホットした気分ですごし一ヶ月チョットで退院。又その人と一緒について歩いた。 館生活の中で当番制の炊事、そうじ、公園清掃、豊滝の畑 冬は雪なげ 仲間と一緒だから苦しくても楽しい思い出だった。 六ヶ月目で人間関係が嫌になり2週間の旭山病院入院。一週でイヤになった。11月末の日曜日、館長、おかあさんもスタッフも居ない時、いる物を持ってタクシーを使い実家三笠に逃げた。その晩姉の電話で「きちんと整理しておいで」と言われ、弟嫁と一緒にサマリヤ館に戻り、弟が岡田さんに一言、「一生置いて下さい」と言って帰った。その事を後で聞いて頭にきて札幌に住むと思い、一年半で出してもらい、今1人生活を始めた。未だに金銭感覚が上手くいかず困る。今はAAにつながって良かったと思う。 人の話を聞くのが少しは出来るが、過去自分がやった事、やってきた事が少しづつ話が出来るようにはまだ自分が正直になれない。隠している事が有る自分。その中で仲間が増える話をしてくれる人、信じられるようになっている自分。今思うけれどそのサマリヤ館に行った時付いた人に感謝したいけど・・・・・ニクたらしい思いもあり、○○○○さんありがとうございます。今作業所に通いそこでの先輩達にも大切にしてもらって生活をしています。


アルコール依存からの駆け込みホーム I

2003年7月「サマリヤ会だより」より
私が、サマリヤ館に救いを求めて来道したのは平成12年の秋も深まる9月25日月曜の夕方5時頃でした。当日は折りしも小雨降る肌寒い日でした。真駒内駅に予定より遅れて着くと直ちに館へ電話をし、以後の行動について伺うと「迎えに行くのでそのまま駅で待つように」と指示され約30分程して白っぽい車が到着し、お互い確認の後乗車、一路藤野へと向かい15分程してサマリヤ館に着きました。程なくして向こう3ヵ月間自分を導いてくれる仲間を紹介されました。初めての環境の中で事細かに教えて貰い本当に助かりました。 入館して1年半という期間は私にとっても充実した時でもありました。この間四季を通じての各種行事などに参加する事が出来たことは思い出に残る事でしょう。春には山菜取り、夏には望来キャンプ、秋には芋煮会、冬には楽しいクリスマス等多彩でした。退館後の現在も折に触れ参加させてもらっています。在館中午前のミーティングは苦手でした。私は人前で話す事など嫌いな方でしたから、本当に。特に女性のいるところでは尚更です。  在館時一番厳しかったのは冬の食事当番の時でした。特に早朝漬物を取り出すのがとても辛かったです。でもいつも一緒に起きて手伝ってくれる仲間がいたお陰で助かりました。今でも彼に感謝しています。また、夜のミーティング特に冬雪の中の時これまた切ない気持ちで行ったものです。最近では慣れも手伝い苦にならなくなりましたが。 退館直前になり部屋の契約をするのに保証人の問題で頭を痛めました。なぜなら私には札幌市内に身内や知人がいないことでした。やむなく別れた妻に連絡を取り何とか承諾してもらい決まり現在に至っている次第です。  退館後は仕事に就くか作業所に通所するか迷いましたが、スタッフの提案にしたがって行動することが自分にとっては将来的に無難な道と決心して現在に至っております。作業所に来てからは春から秋にかけて農作業に勤しみ、そのほか雨天時などは木工作業にと忙しい毎日を送っているところです。木工作業を始めた頃、今迄経験のない事なので戸惑いがちで失敗ばかり、仲間に何度も聞いたりしてやっとの思いで1つのものが仕上がった時の嬉しさは何ともいえない気分です。今は仲間と共にパズル作りに没頭しているところです。私はサマリヤ館、共同作業所を通じて数限りない力を与えられました。何時までこの作業所に通所できるのか分かりませんが少なくとも在所中はより一層努力して品物を購入してくれる人の身になって細心を注ぎたいと思う所存です。  振り返れば私は駆け込み寺(ホーム)にお世話になり本当に救われている実感を今更ながら噛みしめている。もしあの時入館を決断していなかったら、現在の私は此の世に存在していなかったでしょう。過去の経緯からして断言できます。施設入館から現在までの間館長はじめ各スタッフ、ボランティアの皆様には色々お世話を戴きました事大変有難く感謝をしつつ終わりと致します。

サマリヤ会

財団法人青十字サマリヤ会
理事長 熊谷 豊次
館 長 齊藤 和夫
札幌市南区藤野4条3丁目8−18
電話 011-591-1921
FAX  011-591-8414

メールはこちら

当サイトについて

当サイトの文・画像は転載・コピー改変など一切禁止いたします。
リンクの際はこちらまでご一報ください。